「プライド」を現地で検証する旅で

−南京大屠殺記念館での体験−

山田和夫


uploaded on 22 february/1999.



1998年は私個人にとって、また多くの日本映画を愛するものにとって、映画「プライド〜運命の瞬間(とき)〜」を告発し、歴史の歪曲とたたかった1年間であった。その運動の副産物としてある旅行者((株)富士ツーリスト)が「南京を旅して映画『プライド』を検証しよう」というツアーを企画、「映画『プライド』を批判する会」の代表委員の一人として講師に招かれ、この旅行団の団長役で参加することになった。 *

 年末の12月25日から29日まで、みじかい中国旅行だったが、私にとって36年ぶりに見る中国の変貌はおどろくばかりだったし、何よりも主目的の南京への旅は、厳粛な学びの1日であった。 photo.A

12月27日朝、南京は冷え込み、急激な温度差から街全体が深い霧にすっぽりとおおわれていた。目的地の「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館」もまるで喪に服したように、霧のとばりの中にある。正門の横の柱には「全国青少年教育基地」と江沢民筆の字が金の板に刻みこんである。中国政府が若い世代へのきびしい教訓の場として、この記念館を重視しているあらわれだ。 photo.B

1985年、この記念館ができた当座は、訪れる日本人に南京市民は石を投げたという。数十年を経ても消えぬ痛切な記憶。しかし中国政府は「大虐殺は日本軍国主義の犯罪だ。日本国民に罪はない」と布告して、投石のような行為は止んだ。そして広大な敷地に、南京各地域ごとの虐殺状況を述べた石碑を見、昨年4月新たに発見された50体に及ぶ虐殺遺体の発掘現場の前、「遭難300,000」(30万人)と大文字で彫り込まれた壁面、目をおおう虐殺の証拠写真を展示した資料館に立ったとき、私は立ちすくむ思いがした。 photo.C

 南京大虐殺の生存者、倪翠萍(ニースイヘイ)女史の証言を聞いた。当時11歳の少女で、7人の家族を日本兵に殺され、彼女も左肩に弾丸を受けた。片腕を脱いで見せるその傷あとのむごたらしさ。62年を経て、なお当時の悲惨を生ま生ましく伝える肉体の記憶だ。懇談を終えたとき、私は彼女にあいさつをした。「あなた方は、あの虐殺を“日本軍国主義の責任だ”といってくれました。しかし、私はそうであっても、同じ日本人があのような蛮行をあなた方にしたことに、ただただはずかしい限りです。あんなことが二度とくり返されないように、まず私たちは歴史の真実をより広く伝えることからはじめます」と。そして思った。私たちが「プライド」とたたかってよかった、いやもっともっとたたかわなければ・・・と。 photo.D

 その日の夜、私は同行の35人の前で「プライド」と日本映画界の問題を話した。ほとんどの人が映画関係者ではなかったが、一人の例外もなく映画が好きで、日本映画界の現状と未来を真剣に憂えていた。日本映画はそのような真摯な映画愛好者の期待を裏切り続けてきたのではないか。その最たるものが「プライド」のような映画の製作と上映ではなかったか。 photo.E

 私はこの5日間の旅で改めてそのことを思い知らされ、新たな決意を固めさせられたのである。


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