ニューズレター No.38

(2004.8.11発行)

目次

大船撮影所閉鎖4周年を迎えるにあたり

松竹労働組合委員長 梯 俊明

6月に新聞社に投稿した文章の転載

 2000年6月30日の大船撮影所売却・閉鎖は松竹という一企業の枠を越えて、その影響を社会に与えました。売却閉鎖に反対する世論はわずかの期間で5万を超える署名運動へと発展、200人以上の著名な映画人からも様々な立場から支援の声が寄せられました。こうした社会的な情勢にあって、松竹経営は2002年末を目処とした新撮影所の建設を労働組合に約束。さらには立ち退き期限を目前に控えた6月26日、鎌倉芸術館に映画関係者やマスコミを集め、大々的に大船撮影所さよならセレモニー「ありがとう大船撮影所−新たな天地に向けて」を開催。そこで松竹経営は、クリエイターの結集する21世紀型の撮影所建設を公言し、松竹映画のみならず日本映画全体への貢献を表明したのです。

 しかし4日後、大船撮影所最後の日に立ち会った労働者の顔に明るさはありませんでした。偉大な伝統を引き継ぐという使命感とは裏腹に、あまりにも漠然としたイメージしか持ち得ない新天地の現実が、彼らを計り知れない不安と疑念の淵に追い込んでいたかのようでした。

 あの日から4年を迎えようとしています。

この間、大船撮影所閉鎖という事件はマスコミ報道だけでなく国会質問でも幾たびか取り上げられ、文化庁が召集する「日本映画振興に関する懇談会」設置のきっかけともなりました。やがて撮影所に対する位置づけは、単にスタジオとしての機能だけでなく、そこで育つ人材・アイデア・人脈といった有形無形の創造力があってはじめて成立するものであることが、行政を含めた共通認識となり、その公的な支援策についても議論が活発となっています。

 さらに邦画各社においては、自社撮影所の再建を目指す動きが俄かに活気付いています。東映では東京大泉撮影所の第3次改修工事を今年3月に完成、レンタルスタジオに特化してきた角川大映撮影所も映画撮影を視野にした改修工事をこの6月に竣工。横浜移転で揺れた日活でも、ついに調布撮影所の買戻しを想定した撮影所再建案が検討され始めています。もっとも象徴的な事柄では、自社製作に消極的と見られていた東宝が50億もの巨費を撮影所改修に投じることを決定したことが挙げられます。

 これまで経営を圧迫するお荷物と見られ勝ちだった撮影所が今まさに脚光を浴びているのです。各映画会社の視点が映画観客数の増加や本格的なブロードバンド時代の到来に後押しされて、各社の製作力とコンテンツ確保に向けられてきたのです。

 ただ一人、松竹だけは約束した新天地について「作ります」という言葉だけを繰り返しながら未だにその具体案を示すに至っていません。内外に公約したはずの新天地は、企業再建を果たし新社長の就任を発表してもなお、果たされていないのです。大船閉鎖の当時、多くの映画人、映画ファンが大船撮影所の存亡に注目した背景には、大船の地で生み出され継承されてきた言葉にも数字にも表すことのできない「伝統」という二文字があり、その行方こそが注目されたのではなかったのでしょうか。場の提供は松竹資本が約束し、期限を過ぎた今も「作る」という方針そのものは変えていません。しかし伝統という松竹で培われた偉大なソフトを継承するのは土地や建物ではありません。映画製作に携わる人材によって引き継ぎ発展されなければ、その二文字は取り返すことの出来ない「歴史」に置き換えられることになるでしょう。かつて松竹が蒲田撮影所から大船の地へ移転した状況とあまりにも違いがあるのは、そこに時間という決定的な要素が入り込んでいるからです。

 松竹が松竹であるためにも、経営判断として公約した「伝統」の継承と発展は、現有スタッフに辛うじて可能性が残るこの数年以内に果たされなければならないと考えます。伝統を歴史の中に閉ざすような経営判断が、経営再建を果たし復配の目処も明らかにした今の松竹にとって胸を張れる選択かどうか今一度検討されるべきなのです。しかし、考える時間は限られています。

映画「戦争と平和」上映会、大成功!

 映画の自由と真実ネットが平和憲法を守る映画人会議(仮称)準備会と共催で、7月14日夜に行った映画「戦争と平和」上映会は、会場の東京大塚・ラパスホールの会場を満員にし、大成功しました。

 この映画「戦争と平和」は、憲法発布記念映画として1947年に作られた映画。亀井文夫監督と山本薩夫監督が共同で監督した作品です。

 ネット代表委員で映画評論家の山田和夫さんは、この映画の上映会にあたり、以下の文章を寄せました。

日本の侵略と東京大空襲をはじめて告発 「戦争と平和」で米占領軍がカットした部分は?

山田和夫(映画評論家/ネット代表委員)

 亀井文夫・山本薩夫共同監督の映画「戦争と平和」(1947年)は、海軍少年航空兵から復員、軍国主義の呪縛から解き放たれていなかった私が、社会的に目ざめる大きな契機となった映画です。

 1946年11月に公布された日本国憲法を記念し、その第9条「戦争放棄」をテーマに、当時日本映画民主化の先頭に立っていた東宝砧撮影所の映画人が、その総意を結集して製作した画期的な反戦平和の作品。

 もともとは米占領軍当局の示唆にもとづいて製作されたものですが、東宝映画人の情熱と民主的な志向は、米占領軍の思惑を超え、働く民衆の団結によってこそ平和は守れるというテーマを強く打ち出した結果、占領軍検閲で30分近い大幅カットを余儀なくされました。以下の2ヶ所がその主要カット部分です。(八住利雄シナリオ集より)

(1) 主人公の健一(伊豆肇)は復員して東京の街中でかつての上官(菅井一郎)と出会う。その上官はヤミ成金でキャバレーを経営しており、「戦争を止めさせる力なんかどこにもありゃせんぞ」と笑い飛ばした。そのあと健一は、皇居前の食糧デモに参加するが、そのシーンは丸ごとカットされました。

〔シナリオより〕
●街――食糧デモ
その人々の足、足、足。
路端に立って見て居る健一。
その勢いにのまれる様に思はず列に並んで歩き出す。(O.L)
いつの間にか、その列の中にまき込まれ、デモの一人と腕を組んで行く健一。
ふと聞こえて来る紳士の声(注・上官)の声。
「戦争を本当に止めさせる力なんか、どこにもありゃせんぞ」
はっとしたやうに隣の人を、前を行く人を、うしろから来る人に目をやる健一。
デモの人々の顔、顔、顔。
労働歌――(O.L)
労働者の大デモ。整然たるその行進。高らかに空にひびく労働歌の合唱。(O.L)

(2) 健一の戦友康吉(池辺良)は負傷して一足先に復員、夫健一が戦死したと知らされていた町子(岸旗江)と結婚。健一の帰国で疑心暗鬼となり、戦闘中の神経症も再発、やけくそでスト破りの暴力団に入る。
それを知った町子は、康吉を起こさず、スト破りに参加させない。以下イリュージョンで。

〔シナリオより〕
●××工場(街に貼り紙がしてあったのと同じ工場)
    争議団が生産管理中。
その表に乗りつけられるトラック数台。
乗り込んでいる暴力団。その中に康吉の顔。若い男たちの顔。

 以上の重要シーンは削除されましたが、亀井監督が戦時中に製作、上映禁止となった記録映画「戦ふ兵隊」(1939年)の一部を使い、日本の侵略をはじめて劇映画で告発したところ、また東京大空襲をはじめて映画に登場させたところは残され、亀井・山本両監督の戦闘的な反戦平和のスタンスは充分に貫かれました。

 その結果、現在でもメガヒットに当たる1,000万人の観客動員を果たし、その年の「キネマ旬報」ベストテンで第2位を占めました。

(2004年7月8日)

8月10日、映演総連と日本映画復興会議が文化庁交渉

 映演総連と日本映画復興会議は8月10日、日本映画の振興について文化庁と交渉を行いました。これは、文化庁の来年度予算の概算要求作成に向けて私たちの要望事項を反映させるため、本来7月中に行う予定でしたが、映画担当の芸術文化課・金光課長補佐が着任わずか10ヶ月で他所へ異動になったため、交渉が8月にずれ込んだものです。

 しかも、この日になってようやく新任の課長補佐(楠目氏)が赴任してきたということで、福田係長を相手にしての交渉になりました。

 映演総連と日本映画復興会議は、日本映画振興に向けた「要望書」をそれぞれ事前に送付し、交渉に臨みました。

 福田係長は、「行政の施策はどうしても時流からワンテンポ遅れる。映画関係者の皆様から直接意見をお聞きできる場を設けていただいたのはありがたい」と言いながら、「映画振興懇談会の日本映画振興に向けた『提言』は、まだ達成されていない。しかし16年度の映画振興策が『日本映画・映像』振興プランという形でパッケージ化され、予算も相当拡充した。財政事情は厳しいが、来年度も引き続きこれを継続していけるよう努力したい」と述べました。

 その上で福田係長は、「国立フィルムセンターは国の唯一の映画の専門機関だが、独立行政法人の国立美術館・東京国立近代美術館の一部門だ。独立行政法人は平成13年にスタートして、来年が中期目標(5年)の見直し期。独立行政法人のその後について政府は、大幅に見直す、としている。大幅に見直すとは、必要性がアピールできなければ潰すということだ。ゼロベースの見直しになる。見直しは今年から検討が開始され、見直しが固まったものは、5年を待たず順次改革される。だから文化庁は今、独立行政法人国立美術館の必要性をアピールすることについて、庁を挙げて必死で取り組んでいる。文化庁の現在の重大課題は、独立行政法人国立美術館のフィルムセンターの存続問題だ」と述べ、だから他の課題には手が回らないことを言外に語りました。

 文化庁が映画の公的融資制度として打ち出した「日本政策投資銀行による融資制度の創設」については、「経産省や財務省と協議しているが、日本政策投資銀行はもともと長期の低金利融資を行う銀行で、映画の直接製作支援にはならない。版権などの活用を含めた特別目的会社(SPC)の事業に融資することになる」「経産省は完成保証制度などを検討しているが、公的融資のスキームはまだできていない」と語り、映画への公的融資制度設立という期待を裏切りました。

 映画界が強く要望している公設のオープンセット用地問題についても、文化庁の動きはまったく止まっていることを認めました。

 日本映画復興会議は、今年度予算で新設された「子どもの映画鑑賞普及事業」が活動団体に不徹底で、都道府県教育委員会に計画書を出す期間がわずか1週間ほどしかなかったことなどを指摘し、改善を強く訴えました。

 1時間の交渉でしたが、文化庁サイドの言い訳だけが目立ちました。映演総連と日本映画復興会議は、新任の楠目課長補佐を入れた交渉を近々にも開催するよう申し入れて交渉を終えました。

【情報コーナー】

日活支援共闘会議が調布市長と懇談!──「四つの提案」を提出。

 「日活撮影所の存続について応援すること」という陳情が調布市の6月議会で趣旨採択されたことを受けて、日活闘争支援共闘会議と映演総連は7月29日、調布市の長友市長と懇談しました。その席で支援共闘会議と映演総連は、「公設の撮影用オープンセット(用地)を調布市に」「映画・映像製作に本当に必要にロケ地を提供するフィルム・コミッションに」「地方発の日本映画を応援する『調布映画祭』に」「松竹新撮影所の誘致を」を内容とする「調布市が名実ともに“映画の町”となるための四つの提案」を長友市長に手渡しました。

 長友市長は、「こうした具体的な提案は本当にありがたい。映画は文化として国をあげて取り組む課題だ。調布市としては、可能なものから推進したい。実績を作って市民の理解を広げ、半歩フライングしながら進めていきたい」と語りました。

松竹新撮影所建設に向けた専門委員会設置を確認!

 松竹の新撮影所問題で7月8日、松竹闘争支援共闘会議は松竹と団体交渉を行いました。新撮影所建設について松竹側の明快な回答はついに示されませんでしたが、新撮影所建設に向けた専門委員会を労働組合も入れて設置することが確認されました。でもこれで安心などできません。

 松竹闘争支援共闘会議による次の行動は、8月27日(金)朝8時45分〜9時30分、東京・有楽町マリオン前での宣伝行動です。

編集後記

 私の実家は新潟県三条市ですが、7月13日の豪雨と堤防の決壊で、濁流に浸かってしまいました。私の実家は1階部分が全部駄目になってしまいました。大変な被害でしたが、市民一人一人のがんばりとボランティアの皆さんの努力で、町は少しずつ復旧しているようです。でも、この国はこういう大規模災害に対して、どうしてこうも対応が鈍いのでしょうか。(邦)

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